矢野 パトリシア
ブラジル
日系スカラーシップ留学体験談~矢野さん
どうして日本へ留学しようと思ったのですか?
私は日系二世です。私は1990〜1996まで日本に出稼ぎに来て、お金を貯めました。ブラジルに戻ってからブラジル北部にあるパラー州のベレン市で、心理学のコースに入学しました。
私が日本に留学しようと思ったのは、私が1990〜1996年まで出稼ぎで日本に滞在していたことと、日本に住む日系ブラジル人のメンタルヘルスを学ぶことに興味があったからです。
私は2003年に学生として日本に戻り、名古屋市立大学の修士課程と博士課程に進みました。博士課程の時、日本財団の四期生として採用されました。
日本での生活はどうでしたか?
私のライフスタイルと世界観は、日本社会のダイナミクスに合っています。日本に順応するのは難しくありませんでした。私は日本の食べ物、文化、社会構造を愛しています。日本にいると、ブラジルと同じように自分の家にいるような感覚になります。日本社会への順応は、そこに住むことを選択した人の関心に大きく依存していると思います。日本語で話す方法を知っていることは、日本人とのやりとりや文化をよく理解する上で重要な要素でした。私の理解では、日本人はその国に順応しようとするプロセスを手助けしてくれる人々だと言えます。
日本留学中、私はブラジル人学校で研究する機会がありましたが、博士課程で研究を進める上でそれは非常に重要でした。とても忙しい日々でした。
どのような勉強・研究をしていましたか?
トランスナショナルな移住と適応の問題-日系ブラジル人家族の文化変容ストレスについての研究を行っていました。
留学を通して、日系人としての意識が変わりましたか?
日本に住むことは、日系人としての意識を目覚めさせてくれました。私はそれを認識し、移民と移民が引き起こす感情的な影響をテーマにした研究を行うことができました。
学生として日本に住んだのは、私の日本人の祖父母が勇気とわずかな資産のみを持ちブラジルに移住した経験が導いたものです。境界を超えることは、心が分かれるということです。その意味で、祖父母と同じように私の心はブラジルと日本に分かれています。それは、彼らの何かを再生させることに似ています。そして、彼らが体験してきたすべてに価値を与えることでもあります。
卒業後の進路
2009年3月26日に博士課程を終えたあと、私は4月2日にブラジルに戻りました。ベレン市にいるとき、アクレ州の最初の心理学コースの認定に貢献するため、アクレ州リオブランコ市の仕事のオファーを受けました。
2009年の7月に、私はリオブランコ市で働き始めました。私は今日まで娘とリオブランコに住んでいます。リオブランコにある大学(FAAO)で4年間学術部長をしていましたが、その時に州の最初の心理学コースの認定に協力する機会がありました。2013年6月にアクレ連邦大学に参加し、教育、研究、普及に関するさまざまな活動を行なっています。現在、私の活動には学部生とサイコセラピー(スーパーヴィジョンおよび心理療法)の時からの夢であった、高等教育での指導も含まれています。私は、うつ病、不安、トラウマ、自殺願望といったトピックに取り組んできました。
私は、学習、研究、教育、および普及活動におけるキャリアを積んでいくつもりです。私は心理学と教師であることを愛しています。コミュニティを対象とした普及プロジェクトをコーディネートすることで、私の社会的役割の意識を満たすことができると感じています。
現在は、クリチーバ市で2018年7月に開催されるゲシュタルト療法の会議の開会式でブラジル北部を代表する予定です。
一口で言うと、日本での留学の経験から私の人生は完全に変わったと言えます。私は、単なる留学の域を超えて、日系留学生間の絆、学生の健康状態のケア、日本での生活や日本文化についての知識や体験、そして日本人の子孫であるルーツを認識する機会をこの日系スカラーシップ制度が与えてくれたことに永遠に感謝します。私の夢は、このサポートなしでは確実に実現できませんでした。
これから留学を考えている人へメッセージを!
目標に対する専念と確固たる信念! 日本人の移民の先祖たちが費やした努力は、子孫である私たちがより良い人間や専門家になった時にのみ報われると思います。
私は、可能性、そして現実となった夢を信じていました。自分自身のやり方で成功してください。必ず成し遂げることができます!